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2006年05月02日
[スポーツライター上村智士郎の業界人独り言] 第37回 ◆スポーツは誰のもの?

インターネットの急速な普及、技術革新のために、放送権の定義が複雑になっている。そもそもこの言葉を意味は、あるイベントや競技をテレビなどで放送するための権利の意味で、放送事業者、その多くの場合はテレビ局が、イベントの主催者や競技団体からこの権利を購入して放送する。

スポーツではオリンピック、サッカーのワールドカップ、アメリカンフットボールの決勝戦「スーパーボール」など法外な放送権料が飛び交うイベントが少なくない。サッカー界では、現在世界一潤沢な資金を享受すると言われているプレミアリーグ(イングランドリーグ)が今のように復活したのも、この放映権ビジネスに成功したからに他ならないし、日本のJリーグもその100億円を超える年間売り上げの半分以上を放映権に頼っている。先にあげた国際的、世界的なイベントも同様である。
だが、その一方でテレビ局から目も向けられない競技も少なくないということも現実だ。今では活況を呈している日本のサッカーも同様の時代があり、80年代から90年代に日本サッカー協会の会長を務めた長沼健氏は、初めて日本リーグの放送に関して放映権が受け取った時のことを、「お金を払うのではなく、お金を頂いて放送してもらえるとは・・・」とその時の感動を書いている。

現在その放送権は様々な権利に分かれている。まず、生放送と録画放送ではまったく別の権利で、法律的にもその定義は異なる。そして日本の場合、それぞれに地上波、BS放送、CS放送に権利が分かれている。Jリーグを例にあげると、NHKとTBSが地上波とBS放送の権利を所有し、ジェイスポーツ(スカパー)がCS放送の権利を有する。ちなみにいずれも生放送と録画放送の権利を包括的に所有している。今後、経過的ではあるが地上波デジタル固有の権利が独立して設定されたり、今話題のワンセグサービスについても独自の権利が設定される可能性がある。なぜこれだけ複雑になったかと言えば、競技団体、イベント主催者にとって同じ商品(リーグ、イベント)を色々なチャンネルで売った方が儲かるからである。

そしてインターネットの台頭とともに、この世界でも同様の状況が起こってきた。但し、この場合は放送ではなく通信なので“配信権”と呼ぶことになる。
インターネットの技術革新は、パソコンでもクリアな画像でムービー(動画)を視聴できるにした。それによって、インターネット事業者もアクセス増を目論んで、イベントの放送(配信)を手がけるようになった。いわゆる動画配信である。本来インターネットが得意とするのはいわゆるオンディマンドだから、録画“配信”が中心になってはいるが、スポーツに関してはテレビ同様やはりアクセス数を見込める生“配信”に触手を伸ばしている。すでに国際的な大規模なイベントではインターネットの“配信権”の定義が確立して、テレビ同様争奪戦を繰り広げている。この結果やはり競技団体、イベント主催者が販売する売り場が増えた勘定だ。だがそれがあまり取り沙汰されないのは、多くの場合は放送権を購入したテレビ局がおまけでそれを購入してしまうからのようだ。
ちなみにJリーグは、このインターネットでの動画配信に加えて、IPテレビ(インターネットテレビ)にも独立したカテゴリーとして配信権を販売している。商魂たくましい限りだ。

こうした放映権はスポーツの競技団体やスポーツイベントの主催者を資金的に潤沢にした。この状況は今後も根本的には変わりはないだろう。そしてお金が動けは利権が生まれる。先ごろのスケート連盟の騒動もこうした状況で発生したのだろう。伝えられる内容から想像するに、長く一部の人間で利権がコントロールされていたが、女子フィギュア人気で動くお金が大きくなって、関わる人が多くなり、その結果利権抗争勃発して、お家事情がリークされたということなのではないだろうか。現役員などの辞任でことの収拾を図っているが、数年後には同じことが繰り返されるだけだろう。だが、それでもむしろそうした現状が表面化したスケート連盟はよかったのではないかと思っている。

ほとんどの競技団体では、役員が私費を投じ、数多くのスタッフが手弁当(=ボランティア)で汗を流すことでその活動が支えられ、選手がプレーする舞台が整えられている。日本の競技団体に限らず、世界のスポーツの現場はそのような人々の陰ながらの努力と苦労によって育まれ、今日があるのだ。
だが一部の競技団体、特にその中央組織では、放送権やコマーシャル契約、さらには選手、審判などの加盟金によって資金をかき集め、そのお金を競技団体そのものや一部の役員、スタッフのために使い、または使い果たしている。資金力を付けた競技団体は、さらにその影響力を地方の末端に至るまで強め、中央集権型のヒエラルキーを構築し、あらゆるお金を中央に吸い上げる構造を構築する。その結果、地方の現場では年配の指導者が昔ながらの手弁当で子供たちを教えている一方で、日本協会の何もできない若いスタッフが、視察、研修の名の下に特に用事が無いにも関わらずファーストクラスで海外を行き来するという、矛盾が生まれるのだ。

スポーツは誰のものか? 競技団体は何のためにあるのか? 日本のスポーツは今そういうことをしっかりと見据えるべきにきていると思う。その答えは至極簡単である。プレーをする人、楽しむ人、そのすべての人々のためにあるのだ。だが現実は程遠い。お金が絡むほど、遠く離れていく。

先日、甲子園球場に阪神戦を観に行った。私にとっておよそ30年ぶり場所だった。甲子園球場のある西宮市で子供時代を過ごした私は、あの場所で“伝統の巨人戦”、長嶋、王と村山、江夏の対決を観、堀内の快投や田淵のホームランを観た。怪物江川卓が作新高校時代、自らの押し出しフォアボールで夢破れ涙した時もここのスタンドで観ていた。

甲子園球場に向かう観客でごった返す阪神梅田駅。すでにお気に入りの選手の名前を刺繍したユニホームを身にまとい、応援グッズを手にした老若男女が次々と電車に乗り込んでいく。得も言えぬエネルギーが地下のホームに溢れ自ずと気持ちが高揚していく。“阪神電車”に揺られること凡そ10分で甲子園球場駅に着く。着いた駅の目の前は甲子園球場。駅と球場の間に阪神高速道路が通ったお陰で、かつてのようにホームからその全貌を確認することはできないが、ツタの絡まるフェンスに「阪神甲子園球場」の文字。高速道路の上には巨大な照明塔が飛び出して見える。試合開始30分前。球場に踏み入れる前からすでにお祭り騒ぎは始まっていた。

多額の維持費がかかる天然芝。日本ではここと広島球場だけになってしまった。ドームにして人工芝を敷いてしまえばどれだけ合理化が図れることか。80年以上も前に建てられたこのスタジアムは階段も急で通路も狭い。何より座席が驚くほど狭い。アメニティスペースも皆無に近い。そしてお世辞にもきれいとは言えない。企業の合理化が進められた時に生き残れる施設とは思えないのだ。それでも今日もスタンドは応援用のアスコットバットを振るタイガースファンで埋め尽くされている。人々は何を求めてこの場所に来ているのだろう?

間違いなく言えることがある。その全ての人が阪神タイガースは自分たちのためにあり、自分たちが阪神タイガースを支えている信じていることだろう。選手たちはそのファンの思いに応えるためにプレーする。やがてこの舞台でプレーすることを夢見て練習に励む子供たちが、ある者はグランド上に、残りの者たちはスタンドに立ち、このチームの新しい未来を創造するのだ。そうして紡がれた思いと繰り返された思いが歴史となり、このチームと野球を育んできたのだ。

日本のスポーツのあるべきひとつの姿。私はそれがここにあるように思えた。


半年以上に渡って読んで頂いた私のコラムも今回で終わりです。私の身勝手な独り言を長きに渡って読んで下さった読者の皆さん、またこのような素敵な機会を与えてくださった尾崎社長に心から感謝致します。どこかで私の文章を読む機会がありましたら、「また勝手なことを書いていやがる」と一笑に伏して頂けると幸いです。

上村智士郎 拝