最強プロモーション・心理コントロールの仕掛け人・プロデュース・ブランディング・集客コンサルティング
2006年11月07日
[スポーツライター上村智士郎の業界人独り言] 第48回 ◆あるドキュメンタリー番組を見て

先週金曜日に放送された「泣きながら、生きる」というドキュメンタリーを見た。21時からの放送だったのでご覧になった多いと思う。

今から15年前、経済的に恵まれない中国人の男性が、多額の借金をし妻子を中国に置いて、日本語学校に入学するために日本にやってくる。日本語を学びさらに日本の大学に進学したり資格などを得て、生活をレベルアップすることが目的だった。だがその学校があった場所は北海道の僻地。働きながら借金を返していかなくてはならない彼らにとって、そんな場所の学校では仕事を探すこともできない。そして彼はほどなくこの学校を離れ東京に移る。この時から彼は不法滞在者となった。

この番組を作った張麗玲とドキュメンタリーディレクターが、この主人公に出会ったのは今からおよそ10年前。番組でもこの頃からリアルタイムの映像がつづられ始める。映像は主人公が狭いアパートに暮らしながら夜昼なく働く様子を捉える。彼はその収入を妻子に送り続けているのだ。一方、上海の住む妻と娘の様子も伝えていく。彼らもまたつつましい生活を続けている。やがて借金は返し終わりお金は娘のために貯金されるようになる。彼女の目標は医者になることなのだ。
そして今から5年前その娘はニューヨーク市立大学に合格してアメリカに留学し、医者への道を確実に歩き始める。その後も主人公の生活は変わらず、娘のために働き続け送金を続けた。妻も一人の生活に耐え働きながら夫の帰りを待ち続けている。
番組は今年、娘が医者になる目処が立ち、それに伴って15年ぶりに帰国をする主人公の姿で締めくくられている。
とても優れたドキュメンタリーで、まさ泣きながら生きる3人の親子の様子を伝える映像と美しいコメントと視聴者に感動を与える。

このドキュメンタリーを、スポーツの映像製作に関わる人間の一人として見た時、見習うべき点と反面教師として考え直さなければならない点がある。
まず、この作品の10年に及ぶ映像はいつ日の目を見るかわからないまま撮影され続けてきたことだ。主人公が不法滞在である限り、これを放送すれば彼は捕まって強制送還されるからだ。だからかの帰国を待って放送されたのだ。この点は賞賛に値する。
最近の日本のドキュメンタリーの多くは安直に作られ、このように長期間かけた番組は数少ない。特にスポーツジャンルではドキュメンタリー型の番組が流行っている反面、インスタントな番組が多くなっている。よく見ると僅か1日の取材、半日の取材であたかもドキュメンタリー風に作り上げたれているものも少なくないのが現実だ。そんな現状から見るととても刺激的な作品だった。残念ながらこうした時間をかけた作品は、作り手が余程思い入れがあって、最終的に経済的に多くのリクープが期待され無い限りあり得ないのが日本の現実なのだ。

そして反面教師とする点は、この番組のスタッフは主人公とその家族に関わり過ぎたことだ。彼と出会ってからの10年間。彼らの人生の最も大切シーンを演出してしまったのだ。私は正直に言うと、もはやドキュメンタリーでは無いと思ったくらいだ。具体的にあげてみよう。

主人公と出会って2年ほどして、スタッフは上海に住む妻子を尋ねる。その時、彼らは主人公の生活ぶりを撮った映像を母子に見せるのだ。8年ぶりに見る彼の姿。そして自分の夫が、父が、自分たちにために東京でどんな生活を送ったいるかを知るのだ。前後のコメントでこの母子が既に離れ離れの生活に限界が来ていてことが見て取れた。スタッフが映像を提供していなければこの家族は崩壊してしまったかもしれない。それを番組が支えてしまったのだ。人間としては正しいことだが、ドキュメンタリーとしては逸脱している。
もう一つを例をあげよう。娘がニューヨークを留学に向かう途中、日本経由のトランジット便を選び成田での24時間のトランジットタイムを使って、父に会いに行く。不法滞在の父は成田空港には入れないので、空港から1時間かかる日暮里駅のホームで二人は待ち合わせをする。この時、娘は初めての日本で僅か24時間の滞在時間の中で、父と会えない心配はする必要がないのだ。なぜならスタッフが一緒にいるからだ。必ず父に会えるのだ。第一、出会いの場所はなぜ分かりづらい日暮里駅なのか? 空港の隣の成田駅でも当事者たちにとっては問題が無いはずだ。現に翌日送る時はこの駅まで父は来ている。
番組は日暮里までの車中の娘の様子、待つ父の姿、そして上海の妻の姿まで重ねて、視聴者の感動を誘う。この番組のハイライトの一つがそうやって演出されていた。これは明らかに番組によって番組のために作られたシチュエーションだ。同様のシーンが、その後、妻が娘に会いにニューヨークに行く時、成田でのトランジットタイムを使って夫に会いに行く時にも見ることができる。夫婦の13年ぶりの再会が、成田空港から出会いまで1時間の距離を作ることで、より感動的になっているのだ。こうしてこの番組の最大のハイライトは作り上げられていた。

実はスポーツドキュメントの製作の現場でもこうしたことは珍しくはない。手を加えられないのは試合の中身と結果だけかもしれない。そうでなくても取材を前提にすることで、選手自身が行動を変化させていることは当然のことだ。決勝点を決めた選手が、残りの時間ずっと取材にどう答えようか考えていたという話は当たり前になっているが、それも実は作られた事実の一つなのだ。
映像だけでなく、ペンの取材でも様々な演出が加えられている。この場合は書き手の主観というべきか?
そして、そうやってヒーローが生まれ、ムーブメントが作られて行く。それがメディアの仕事であり、それが出来ることがメディアのステイタスだと勘違いしている作り手も少なくない。私自身はもう少し本来の事実に沿った精度の高い情報を提供する義務がメディア側にあると思うのだが、いかがだろうか?