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2006年09月19日
[スポーツライター上村智士郎の業界人独り言] 第41回 ◆皇帝の終焉

9月9日、F1の"皇帝"と詠われたミヒャエル・シューマッハーが、ホームサーキットと言えるイタリアグランプリで優勝した後、今シーズン限りで引退することを発表した。F1デビュー以来16シーズンを戦い、この日をレースで生涯90勝、年間チャンピオンも8度。いずれも前人未到の大記録である。

F1=フォーミュラー1は、世界各国を転戦する形で年間16戦から18戦が行われ、その各レースでの優勝と同時に、それぞれレースの結果をポイント化しその合計で年間チャンピオンが競われる。今年は22人のレーサーが参戦してその座を争っている。日本からはトヨタ、ホンダ、スーパーアグリの3チームが参戦し、2人の日本人ドライバーがいる。また一年に一度、三重県の鈴鹿サーキットでおよそ20万人の観客を集めて日本グランプリが行われている。今年は10月6日〜8日の開催だ。

世界中で様々なレギュレーション、カテゴリーのカーレースが行われているが、このF1が世界最高峰のレースであることは間違いないだろう。300キロを超えるスピードや訪れる観客の数もさることながら、ドライバーの契約金、車の開発費など他のいかなるカーレースを遥かに凌駕しているからだ。ちなみにシューマッハーの今年のチームからのペイメントは契約金だけでおよそ60億円。その他ボーナスやCM契約を併せると彼の年収は100億円を超えると言われている。ヤンキースの松井秀喜選手は5年契約で60億円。世界でこれだけの収入を得ているアスリートは、ゴルフのタイガー・ウッズとアメリカンフットボールNFLにいるかいないかというレベルだろう。

日本でこのF1がお馴染みになったのは、1980年代にホンダがエンジン供給を始めてからだ。数年遅れて日本グランプリが始まり、時同じくしてフジテレビの中継も始まった。ホンダにとっては1960年代以来の2度目の参戦となったこの時代、ホンダは圧倒的なエンジンパワーの武器にF1の歴史を塗り替えるほどの強さを見せ付けた。それまでバイクメーカーとして世界を席巻していたホンダが4輪の世界でもその頂点に立ったのだ。1989年には年間16戦のうち15勝。あまりの強さに翌年からホンダが得意としていたターボエンジンが禁止されたほどだった。

そしてこの時代、ホンダの車を駆って世界の寵児となったのがあのアイルトン・セナだ。日本では"音速の貴公子"、海外では"神の子"と呼ばれたブラジル人ドライバーは、世界のアイドルだった。今で言えばデビット・ベッカムか。もちろん彼はF1レーサーとしても一流で、11年間で41回優勝し、3度の年間チャンピオンになった。これはいずれも歴代3位の記録だ。また宿命のライバル、アラン・プロストとの確執は数々のドラマを生んだ。人間的な喜怒哀楽とナーバスさを見せるセナに対して、冷静沈着で計算しつくされたドライビングから"プロフェッサー"と呼ばれたプロスト。シューマッハーに破られるまで歴代の最高記録だった51勝をあげ、4回の年間チャンピオンになった彼も史上最高のドライバーの一人だった。

この二人が、1988年と89年の2年間、マクラーレン・ホンダというチームでチームメイトとして戦った。先ほどあげたホンダの年間15勝も最高のドライバー2人を擁した89年のことだ。しかし両雄並び立たず。最速の車に乗る二人の天才ドライバーは当然二人でチャンピオン争い繰り広げた。89年には同じチームでありながらタイトル争いの佳境で迎えた日本グランプリで、接触し両者ともにリタイアしたのだ。

更にプロストがフェラーリに移籍した90年の日本グランプリでも、スタート直後のコーナーの入り口で接触して、二人のレースはそのまま終わった。年間チャンピオンをかけた激しいレースを見るために詰め掛けた大観衆は完全に肩透かしを食った形だった。私もその場に居合わせた一人だった。第1コーナー付近のスタンドであまりにもあっけない幕切れを目撃し、その時は「なんだよ」と失望したが、後に、200キロ近いスピードで飛び込む高速コーナーでの世界一を目指す二人の男の意地と命をかけたぶつかりを目撃した感激が徐々にこみ上げてきた。その瞬間を自分の目で目撃できたことは、私にとって忘れられない思い出となっている。

私にそんな強烈な思い出をくれたアイルトン・セナだったが、彼のレース生命はある日突然失われる。1994年5月1日サンマリノグランプリのレース中の事故で、この世を去ったのだ。92年を最後にホンダがF1から撤退。その後のあらゆる点でレベルの落ちる車に乗ったレースでもセナは驚異的なドライビングを見せ、長年「セナの強さはホンダのお陰」と揶揄されていた汚名を見事に払拭した。34歳。天才から円熟の域に入った華麗なドライビング。そんな中での出来事だった。

この日私はフジテレビで深夜に放送される録画放送をいつものように見ようとしてた。だがその日の放送はタイトルも無くいきなり現地の映像が映し出された。サーキットをバックに解説の今宮純氏が佇む映像。彼は涙ながらにセナが壁に激突し、意識不明のまま病院の緊急治療室で治療を受けていることを語った。私は、今自分が見ている映像がライブであることを知る。セナが高速コーナーで壁に激突し、大破した車の中で全く動かないヘルメット。車から引き釣り出され横付けされたヘリコプターで病院に運ばれる様子が何度と無くVTRで流された。

やがて放送中にレースが再開。そして番組中にセナが帰らぬ人となったことが告げられたと記憶している。後で知ることだが、実は激突の衝撃で部品の一部が彼の頭蓋骨を貫通した状態で、決した助かる状況ではなかったそうだ。私にはこのレースの全く記憶が無い。だが記録は残っている。このレースに優勝したのが当時新進気鋭天才レーサー、シューマッハーだ。彼はこのレースの勝利を含めこの年8勝をあげ、自身初の世界チャンピオンになったのだ。

セナがクラッシュした時、すぐ後ろを走行していたのが彼を追走していたシューマッハーだった。一時代を築いた稀代のスーパースターを追走する次代を担う若者。サーキットにいた誰もが世代交代という言葉を思い浮かべたろう。そんな象徴的なレースだったのだ。

目の前からセナが消えた時のことをシューマッハーが語ることは無かった。彼が公の場でそのことを口にしたのはセナの死後10年を超えてからだった。この時彼は、事故の衝撃についてとともに、セナへの熱き憧憬、セナの失ったことへの喪失感、さらにそれによって起こった周囲からの重圧について、涙ながらに語った。セナの死以降、まさに孤高の王者として10年に渡って世界のモータースポーツの頂点に君臨し、正確無比のドライビングと喜怒哀楽を見せない振る舞いからサイボーグと揶揄され、あまりの強さゆえに常に孤独を強いられたシューマッハーが、一人の人間になった時なのかもしれない。そして、あの時から彼の引退へのカウントダウンは始まっていたのだ。

現役続行を望む周囲の声をよそに引退を発表したシューマッハー。だが彼は現在、昨年24歳で史上最年少の世界チャンピオンになったスペイン人ドライバー、フェルナンド・アロンソを押さえ、ドライバーズ・ポイントで首位に立っている。日本グランプリを含め残り3戦。シューマッハーは人類史上最高のドライバーに相応しいドライビングとドラマを、世界中の人々の脳裏に焼きつけてヘルメットを置くことだろう。